48歳から生まれ変わると考えた女のブログ

自分を生きてなかったことに人生折り返しをすぎてから気づきました。

考え方を押し付けていないかを日々チェックすることにした。

前回の話からつづく。

 

母親との関係を「価値観の共有」という点で考えた。私は幼少期、母の価値観に自分の価値観を合わせようとしていたことがある。

 

5歳の頃に、両親は離婚しているが、母はその後よく父親の愚痴を私に話していた。

 

お金に関してルーズだったとか、思いやりのない態度など。

 

ほかには、勉強をしっかりして偉い人になるのが幸せ、という価値観も強くある人だが、

 

そんな価値観に自分も合わせていきながら、私はお母さんの味方だよ、というメッセージを送り続けていた。

 

私は寂しかったのだ。そして母親から拒絶されるのも怖かったのだ。母を怒らせず、いい子でいることで自分を守っていたのだと思う。それくらい自分にとって母親が絶対的だったのだ。

 

しかし、それでは常に母親の機嫌や視線を気にして、びくびくして生きなければならない、なんとも窮屈で息苦しい人生だ。

 

離れて暮らしている今でも、多少そんな感覚が残っている。

 

ふと、オウムの事件を思い出したりもする。恐ろしい話である。

 

人間は弱い生き物だな、自分というものを持って生きる、ということは、けっこう難しいものなのだなと思う。

 

まあ考えてみれば、自分の中に母親がどんと座って、それが指示を色々とだしているのだろうが、オリジナルな母親をあらためて作り直していくしかないかな、思うのだ。

 

私にとっての真の母親、つまり成熟し、自立した真の人間、女性はどんな人間像なのだろうかと。

 

そこもそれなりに育ってきているのは感じている。たとえば、こどもを追い立てることなく、時間をかけて見守り、こどもの中からでてくる成長を応援していこうという気持ちや、話をじっくり聞いてあげて、肯定感、安心感を持てるように支援したい、そんなものも私の中で育ってきている。

 

お母さんが信じてくれていたから、という娘からの言葉を何度かこれまでに聞いた。

 

だから、そこは自分でも信じていいのだと思う。

 

 

ただ、「私のように冷めていてほしい」には気をつけようと思っている。彼女に、自分の考え方を無意識にインストールしようとしているのだから。

 

日々、娘との会話のなかで、「私は娘に自分の考え方を強要していないか?」をチェックしていこうと思う。

 

また、冷めた見方、についても一度考えてみたいと思う。