私がやるべきことは変わらない。私を愛していくことだけなのだ。
お金で娘の愛情買おうとしないでね、かーさん。というお話。
母親は40代頃から経済的に余裕ができてくる。家を買い、私の部屋をかまえ、壁紙やフローリング、カーテンの柄を選ばせてくれた時のことを覚えている。エレクトーンとピアノも買ってくれた。
今思えば、このとき母は娘にここまで十分なことをできて幸せだったんじゃないかと思う。しかし、実際には私は非行へと走り1年間母とは別居もしている。
かーさんバカだな。私が欲しいのはそんなもんじゃないよ。
こっちをみてよ、そばにいてよ、遊ぼうよ。
心の地図を失ったなという不安感でいっぱいだった。
80になる母は今でもある意味私に執着しているところがあると思う。私が思い通りにならないと許せないところがある。
自分の世界観と考え方の枠の中で私を愛そうとしているが、勝手にやっておればいい、と私は思う。
母は小さい時、あれも習いたかった、これも習いたかった、でもさせてもらえなかった、と話していたことがある。結局母は、私を通して幼い頃の自分を思っているのだ。
そして、私の方こそ、いつまでもこっちをちゃんとみないような相手、もう手放せばいいじゃん、とおもう。
私は冷たいのかもしれないが、この冷たさが「終わらせる」ということを可能にしている、とも思う。
そして、そんな諸々の出来事をとおして誰かに愛してもらおうなんて期待しても、おそらく叶わないことだろう、だから自分はめいいっぱい自分を愛してやろうと思いはじめる。
まずは明日、自分のために、自分が食べたいものを美味しく作ってあげて喜ばせてやりたいなと思う。
こどもは母である私とたのしく過ごしたいのだろうなと思う、だから、私も彼らと楽しい時間を今もてるだけもとうと思う。
いつかは親ではない、大切な人を見つけてその人を愛するようになるのだ。思いというものは、それほど移り行くものなのだし、今、彼らとの愛情豊かな交流をしっかりと味わい、そしてそれもまたいつかピリオドをうっていくのだ。
どんなときも、私がやるべきことは変わらない。ずっと自分を愛していくのだ。