48歳から生まれ変わると考えた女のブログ

自分を生きてなかったことに人生折り返しをすぎてから気づきました。

死について考えた。

死について考えた。

 

想像してみた。あ、もうお迎えがくる時だな、いよいよ自分の人生もまもなく終わるのだ、という時のことを。

 

これまでも、いろんなことに心の整理はたくさんつけてきた方なので、浮かぶのは子どもたちのことくらい。

 

死が近づいてきたら、夢の中に送り人のような人が現れるんじゃないかと思う。そして、わたしという個人の人生はここで終わりですよ、と告げにくるのだ。そしてゆっくりと幕引きが始まる。送り人は運命に沿って、淡々と幕引きの手順をすすめていく。そしてそこには少し猶予がある。死を受け入れ、自らの手で人生の扉をひとつひとつ閉じていく作業をしていくのだ。自らの意志でひとつひとつに別れを告げて閉じる、というのが大きなことだと思う。

 

そして、最後はストンと幕がおり、テレビの電源が切れるかのように意識の中では人生が終わるのだと思う。

 

その後は、想念の世界のようなところにはいるのだが、そこで自らを浄化していくのが、生きている人たちへの慈愛ではないかと思う。生きている人を愛しサポートしていくことで、亡くなった魂がまたひとつ軽くなっていく。

 

そう思うと、生きている間に愛の交流をちゃんとして心残りを軽くしておくのがいいのだろうな。

 

そしてその後は、別の時代、別の場所へいって違う課題をてがけにいくかどうか、そんなことを整理して決めていくんじゃないかと。

 

ふと思う。では私の今の人生、選ぶ前にどんな課題をてがけようと思って私の魂は生まれることを選んだのだろう?

 

きっと、大丈夫だよ強く生きていけるよ、気にしない強さと明るさ。そして、人をそのままに認める、他者をみようとしないバラバラの人たちの中で、自分自身が分裂してしまわないように自分を健やかに保つということ。孤独になるけど大丈夫だよ、そんな課題をもって生まれているように思う。

 

人を心配しないこと。不安に思わないこと。

自分のやりたいことをみつけること。

こどもをしっかり愛すること。なぜなら子どもへの愛は見返りを求めないから。ただただ相手の幸せを願うことだから。

それが人と人の間の自由というものを学べるレッスン。

そして生まれたことへの感謝。なぜならそれで自分が十分に満たされるから。

 

愛をもって他者を面白がれるようになりたい。語弊はあるかもしれないが、今はそんな風に思う。

 

 

私がやるべきことは変わらない。私を愛していくことだけなのだ。

お金で娘の愛情買おうとしないでね、かーさん。というお話。

 

母親は40代頃から経済的に余裕ができてくる。家を買い、私の部屋をかまえ、壁紙やフローリング、カーテンの柄を選ばせてくれた時のことを覚えている。エレクトーンとピアノも買ってくれた。

 

今思えば、このとき母は娘にここまで十分なことをできて幸せだったんじゃないかと思う。しかし、実際には私は非行へと走り1年間母とは別居もしている。

 

かーさんバカだな。私が欲しいのはそんなもんじゃないよ。

 

こっちをみてよ、そばにいてよ、遊ぼうよ。

 

心の地図を失ったなという不安感でいっぱいだった。

 

80になる母は今でもある意味私に執着しているところがあると思う。私が思い通りにならないと許せないところがある。

 

自分の世界観と考え方の枠の中で私を愛そうとしているが、勝手にやっておればいい、と私は思う。

 

母は小さい時、あれも習いたかった、これも習いたかった、でもさせてもらえなかった、と話していたことがある。結局母は、私を通して幼い頃の自分を思っているのだ。

 

そして、私の方こそ、いつまでもこっちをちゃんとみないような相手、もう手放せばいいじゃん、とおもう。

 

私は冷たいのかもしれないが、この冷たさが「終わらせる」ということを可能にしている、とも思う。

 

そして、そんな諸々の出来事をとおして誰かに愛してもらおうなんて期待しても、おそらく叶わないことだろう、だから自分はめいいっぱい自分を愛してやろうと思いはじめる。

 

まずは明日、自分のために、自分が食べたいものを美味しく作ってあげて喜ばせてやりたいなと思う。

 

こどもは母である私とたのしく過ごしたいのだろうなと思う、だから、私も彼らと楽しい時間を今もてるだけもとうと思う。

 

いつかは親ではない、大切な人を見つけてその人を愛するようになるのだ。思いというものは、それほど移り行くものなのだし、今、彼らとの愛情豊かな交流をしっかりと味わい、そしてそれもまたいつかピリオドをうっていくのだ。

 

どんなときも、私がやるべきことは変わらない。ずっと自分を愛していくのだ。

 

 

 

できることなら許していくこと

今日は数年ぶりに知人と会って話をした。前はちょっとイヤかな、と思っていた知人の性格のくせも、今はかわいいなと思える。そんなことに気づいた。

 

昔なら、いったん離れた人と自ら連絡をとることなどなかったのだが、再会してみて思ったのは、どこか心にひっかかって会えないままでいる人とは、できるのなら心を許してみるのがいいのではないか、ということ。

 

以前、そのように離れていたある知人が、いつの間にか突然死をされていて、かなりショックだった経験があるからだ。

 

前はイヤだなと思ったところも、かわいいかな、と思えたのなら、あの世にいっても後悔は残らないかな、と思う。

 

 

私にとってスピリチュアルとは。

スピリチュアルって言葉は、人によって定義がちがうなと思う。

 

私にとってのスピリチュアルは何かを、ふと考えてみたら「人間の尊さ」だろうなと思う。

 

私にとっては絵を描くこともスピリチュアルだなと思うし、料理をしていてもスピリチュアルだなと思う。

 

散歩をしていて花の美しさとか、海のそばにいて感じる気持ちよさとかも、それが響いている感覚はスピリチュアルだと思う。

 

星占いもスピリチュアルだと思うけれど、それがお金儲けみたいになるとちがうかなと思う。

 

生かされているなと感じる時や、この世を去った人のことを思い、また自分もがんばろうと思える気持ちも、またスピリチュアルだと思う。

 

困難の中にある友人を思って、心の中で応援したり、幸せをそっと願うことをスピリチュアル。

 

あなたがそこにいてくれるだけで、スピリチュアル。

 

人は尊いなと思う。

 

誕生日。自分のギフトにありがとうを伝える日。

前の記事を読み返していて、自分に与えられた才能に感謝ができていなかったなと感じたので、それもきちんとホオポノポノのクリーニングをしようと思った。

 

自分にできることがあれば、それはちゃんと「こんなことができます」と言っていってよいのではないかな、と少しだけ思えるようになった。

 

私は自然が好きです。

…堂々と言ってもいいと思う。

 

私はスピリチュアルなことを愛しています。

…言ってもいいのかなぁと思う。

 

堂々と、私はこれが好きです、いいなと思ってますってこと、少しずつ増えていけばいいな。

 

 

そしたら周りの「素朴で素敵なこと」もたくさん目に入ってくるような気がした。

 

 

 

誕生日。生まれた自分にありがとうを伝える日。

今日は49歳の誕生日。家族は誰も気づいてないようですが、そんなことより、自分で自分に心からありがとうを伝える大切な日。

 

1974年4月26日という日をホオポノポノでクリーニング。

 

生まれた日付って自分の代名詞みたいだなとも思う。

 

古くからある「生まれてこなければよかった子」という思いがまだ顔をのぞかせる。ここにすがりついてるんだな、とも思う。

 

なぜなら価値がないって思ってる方がまだ安全、とも思っていた。それなら放っておかれるだけですむから。

 

才能を光らせたり、有能になったりすると、いろんな人の思惑がからんでくるのがいやだったりする。

 

才能や名声求めることのあやうさ、みたいなものをじっと感じてきたと思う。でもそれは無駄ではなかった。

 

それなりの地位や能力を磨いてきた人ほど、他者への批判が強くなるのを目の当たりにしてきた。

 

でも素朴さや、ありのまま、に美しいねと感じる心に愛があるなと思う。能力や名声を求めると、そんな美しさを感じることができなくなるのだなと思う。

 

さて、これからの人生、自分をどんな形で表現していくのがベストかなぁ。

 

目指すものは、これまでとは全く変わると思う。親の価値観で生きてきた間は、人に認めてもらえるものとか、ちゃんとお金になるものとか、じゃないと意味がないってしばられていたけれど、

 

私がやっていて嬉しいな、幸せだなと思えるものを、素直に楽しくてほっこりできていれば、まずはそれがいいのかな、と思う。

 

大義名分はもう何もいらない。

 

ずっとそこに行きたかったんだな、と思う。

 

 

そしていい意味で人の影響を受けないようになりたいなとも思う。わたしはわたし〜とほんわかとしていたいな。

 

わたしにはわたしのいいところがあるんだよ。

 

そんなことを感じた49歳の誕生日。生まれてきてくれてありがとう、わたし。あいしてる。

 

 

 

ケアする力。豊かな人生のために。

つきあいが始まって1年になる知人2人がいるのだが、その日わたしはバイクででかけようとヘルメットを手にしていた。

 

知人2人は驚いたように、えっ、バイクに乗るの?と聞いたが、私がバイクに乗っている話は過去に2〜3度している。時には娘を乗せて走ることなども。

 

あまり自分の話はこれまで真剣に聞いてもらってないのだな、と正直おどろいた。

 

なんというか、けっこう仲良くしてもらっているとこちら側では感じていただけに、ショックはあった。

 

まあ、その程度か、と諦めてしまえばいいかと思いなおしている。他人に振り回されるより、自分ひとりの楽しみを充実させていこうとも思っている。

 

知人たちもきっと子育てなど大変な毎日を送っていて、細かな会話のはしばしに注意をむける余力もないのかもしれない。

 

また、気持ちが元気になるきっかけが水谷さるころさんの記事を読んでから。

https://kidsna.com/magazine/entertainment-report-230413-14724

 

 

ケアする力が足りない(主に男性)と、ケアを担ってきた(主に女性)という視点が書かれてあった。

 

そうか。みんな大変なんだな、と思ったのだ。

 

昔、興味があって読んだいた本をまた読もうと思っている。アドラー心理学の本だ。

 

こどもがこんな風に育つと嬉しいかな、という視点がアドラーの本を読んでいると重なることが多い。

 

自分で決めていける

自分の価値をわかっている

他者のために力を生かすことができる

etc...

 

まあでも、子育てを通して自分がちゃんと成長したいのだろうとは思う。将来の進路を見定める時期にきている娘のそばにいて、私自身、語ってやれることがないなと実感しているのだ。

 

でも、それでもいい。なにせ生まれ直したばかりなのだから。ここから10年たったとき、好きな自分になったもんだ、と思えればそれでいい。

 

それに娘の周りには豊かな大人たちがいてくれる。

 

娘と、まだ幼い下の子と一緒に、この受け取った人生をしっかりと満喫していきたい。